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ブッダの語る 覚醒への光の道

 ブッダの語る 覚醒への光の道
原始仏典「ダンマパダ」現代語全訳

トーマス・バイロン パーリ語英訳/廣常仁慧 英文邦訳
(英語原文同時掲載)
定価 ¥2,300(+税) 305ページ


仏教書の新しい風!
日本人の知らない欧米でのベストセラー仏典「ダンマパダ」

これは悟ったたましい、ブッダの言葉である。その言葉は素朴にして神聖な場所から来ている。だからあなたが自由へと解放されるには、素朴なこころで聞かなければならない。その言葉は知識ではなく、たましいから来ている。だからあなたが渇いたたましいを癒すには、この叡智の言葉は知性ではなく、たましいで聴かなければならない。

「ビー・ヒア・ナウ」著者 ラム・ダス序文より


 もくじ

  • 謝  辞
  • まえがき ラム・ダス
  • 歴史的背景
  • 第1章 選択
  • 第2章 目覚めていること
  • 第3章 想念
  • 第4章 花
  • 第5章 愚者
  • 第6章 賢者
  • 第7章 己を統べる者
  • 第8章 幾千のものより
  • 第9章 間違った行い
  • 第10章 暴力
  • 第11章 老い
  • 第12章 自分自身
  • 第13章 この世界
  • 第14章 目覚めし者
  • 第15章 喜び
  • 第16章 快楽
  • 第17章 怒り
  • 第18章 不浄
  • 第19章 正しきこと
  • 第20章 道
  • 第21章 森のそとへ
  • 第22章 闇
  • 第23章 象
  • 第24章 欲望
  • 第25章 探求者
  • 第26章 真のマスター
  • 邦訳者あとがき

これは悟った魂、ブッダの言葉である。もし人が聞く耳を持つなら、その言葉で目覚め、その言葉によって内なるブッダを観るであろう。その言葉は清きところから来ている。だからその言葉があなたのこころに触れるためには、清きこころで受けとられなければならない。その言葉は清らかにして純粋な場所から来ている。だからあなたが自由へと解放されるためには、純粋なこころで聞かれなければならない。その言葉は知識からでなく、たましいから来ている。だからあなたの渇いたこころを癒すには、知性ではなく、たましいで聴かれなければならない。なぜなら、たんに知性の渇きを癒すものはあなたを罠にはめ身動きできなくさせるが、たましいの渇きを癒すものは解放をもたらすからだ。そしてまた真理へといちずに希求するのは、他ならぬたましいであり、知性とはただ好奇心を満たそうとするだけなのだ。

真理は器から器へと移されるように伝承される。もしあなたの肉体が、こころが、あるいは意識が不浄ならば、真理を受け容れることはできない。清きものが不浄となり、不浄な器が、真理の持つ強烈なパワーにより破壊され、伝承は失われる。そうして、ふたたび闇の中を歩み続けることになるのだ。人は生涯において、この本にあるような言葉を数かぎりなく読んできた。キリストや老子や禅の始祖の言葉を、あるいはルミやカビール、セントテレサ、ヨハネ、ソロモンやアブラハムの言葉、またあるいはマホメットやクリシュナ、そしてヴェーダの聖仙たちの言葉…この宇宙の神秘を解き明かすかずかずの言葉を。しかし人々がそこから真に受け取ったものは数えるほどもありはしない。受けとめる心の準備ができていないのだ。それゆえに真理を伝えようとしてもその伝承は繰り返し繰り返し失われてきたのだ。

この本を買い求め、あなたはいま、心地よい椅子に座り、読書用のスタンドを灯し、あたかも詩集を読むように、いつもの週刊誌や小説よりは少しゆっくりとこの本を読もうとしている。しかしそれは果たして、ブッダの言葉、あるいはキリストや老子の言葉を受け止めるために十分な準備といえるだろうか。果たしてそれは、聖なる人の前に座し、数えきれぬ生と死の転生の輪から、あなたを解放するであろう珠玉の言葉を受けとる準備といえるだろうか。もしこれからブッダに会いに行こうとするなら、沐浴して身を清めたくはないだろうか。捧げものとして果物かココナッツの実をたずさえて行くのではないだろうか。静かに座して風や木々や天空に身をまかせ、心静かになるまで待つのではないだろうか。同胞たちの苦しみに思いをはせ、救いの手を差し伸べようとするのではないだろうか。ブッダの前に進み出て、謙虚に頭をたれ、彼のまえにひざまずくのではないだろうか。そうするのが、最高の真理を受けとろうとする者にふさわしい準備と言えるのではないだろうか。そしてブッダの口からこぼれおちる言葉を聞いたあなたは、それを判断しようとする衝動を遠ざけ、全身をその言葉のなかに浸そうとするのではないだろうか。清流に身をまかせ、その癒しの水で自己イメージやそれに対する思いこみが作る緊張を洗い流してもらうよう、ブッダの言葉に意識をゆだねるのではないだろうか。

さあ、想像してみてほしい、いま現にインドのどこかにブッダがいると。そうであるなら、あなたは彼からの教えを受けようと巡礼の旅にでかけ、おそらく鹿野苑と呼ばれる公園で毎日集まってくる僧たちにブッダが説法をすると聞き、サールナートとかいう町に辿りつく。

しかしそこでは

「いや、もうとっくにおられません。この季節には北部の山沿いに行かれているでしょう」

と告げられる。あなたはそこからまた旅立つ。ときには牛車に乗ることがあっても、ほとんどは歩く。そして来る日も来る日も、来る週も来る週も… 村から村へと。休憩ごとにブッダの消息をたずねて。

「はい、あの方はおられましたが、一週間まえに東の方へ行かれました」
「はい、その方は五日まえまでおられましたが、北の村へ行かれました」

そうした言葉や応対のしぐさの一つひとつから、あなたはだんだんと彼に近づいているのを確信する。もうすぐ会えるという期待と興奮は、もはや耐えられないほど大きくなっていく。近づくにつれて、あなたは、出会う人々の顔や目の輝きから、彼らがブッダとの面会というこの世の最高の甘美を味わったことを知る。彼らはその最高の喜びを口々にあなたに伝えようとする。ブッダがどのように歩かれたとか、どんなことを話されたとか、どのように微笑まれたとか…。あなたはクリシュナをいつも追いかけていた牛飼いの乙女たちが 「クリシュナはここにおられたに違いない。ほら見て、あの蔦の花びらがまだ喜びに震えているわ」 と言っていたのを思い出すかもしれない。近づくにつれて、あなたにとってブッダに会えるという喜び以外は、どんなことも色あせてしまい、どうしても会いたい一心で、食事や休憩さえも忘れて進んで行く。そしてついに、あなたはたどりつく。スカーフをした羊番の女たちが

「ええ、その方ならあの丘の上にいらっしゃいます」

と、指差すところに。

あなたは急いで沐浴し、捧げものを手に丘を駆け上がっていく。途中、石や茂みにつまずいても気にしようともしない。なぜなら今にもあの聖者に会えるのだから。辺りはふつうでは考えられないような光に包まれている。あなたの体は震え、呼吸は速くなる。そしてそこには、樹の下に座るブッダがいる…完全なる静けさに包まれて。あなたは足元に跪き、ブッダにダンダプラナムする…何度も何度も。そして携えた果物の贈りものを捧げ、教えを乞うのだ。ブッダはほんの僅かにうなずくと、まえに座るようしぐさで示す。あなたは受け入れられたのだ。このような安らぎは今までにいちども感じたことのないもの。

ブッダとともに座り、あなたは時空を超え、感じるのはただ、今という瞬間…頬をかすめる風、遠くで吠える犬の声。あたかも世界は止まってしまったかのよう…

しばらくしてブッダは話し始める。

 

人は心に思うものになる
あらゆるものは、心に思うことから生じ
思いによって世界は創られる
………

言葉はしばらく続く。その一言一言は、あなたのたましいに焼き付いてゆく。その一言一言はあなたを解放する鍵。それは一つの旅の終わりであると同時に、次の旅の始まり…

しばし沈黙の時が流れる。もう帰るようにとのブッダのしぐさに、あなたは再び拝礼し、その場を辞す。

あなたの受けとった一つひとつの教えの言葉、ああ、それはどれほど多くのかがり火のもとで、どれほど多くのせせらぎのほとりで、どれほど多くの瞑想のなかで、あなたを繰りかえし甦えらせてくれることだろう。それらは求めに求め、やっと手に入れた珠玉の言葉…だがほんとうに手にしたのは言葉以上のもの、その言葉の湧きでる源…無限の空間、誠実さ、慈悲、平和そのものなのだ。

いま、あなたの手にはブッダの言葉をしるした本がある。一行ずつゆっくりと読みすすめてほしい。一行ごとの言葉があなたのたましいの飢えを癒すように…。

願わくば、その言葉に触れ、あなたの肉体と意識とこころが清められんことを。

ラム・ダス

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